ねむりん

南無

人生に価値があると捉えることの苦しみ

こんにちは。ねむりんだお。

 

今日もよろしくね♪

 

人生って概念、ちょっとスケール大きくて掴みづらいと思うんだけどさ。

 

人生に、価値を与えることから、すべての喜怒哀楽ははじまるんだと思う。

 

裏を返せば、価値を与えるってのは、対象に依存している、執着しているってことだ。

 

いい悪いではなく、執着するから、喜怒哀楽の感情が生まれてくる。そして、感情は苦しみの原因になる。

 

すべての起こりは、やはり無常なので、感情も刹那的なものである。喜や楽に囚われるほど、その表裏となる、怒や哀の感情の存在も肯定することになるってこった。

 

そして、感情の生まれてくる原因は、思索や妄想にある。自己観察すると必ず感情が生じる前段階に、渇望感から、思索や妄想をしている筈である。

 

思索や妄想を離れるには、冷静に自己洞察したり、五感に意識を向け、瞑想で心を休めるようにする。

 

あらゆることへの執着が、💩みたいな悩みや、ゴミのような感情が生まれてくる原因になる。

 

あらゆることに、価値があると捉えるか、大したことはないと、捉えるかという、自分の選択次第だ。

 

麻薬的な快楽に依存するから、根本にある苦しみから解放されないのである。

 

おれもそうだったが、麻薬的な快楽が苦しみだとは思わないだろう。でも、それらに対する、強い執着心が、結果として苦しみを生む。

 

この人生というゲーム、、、というと、少し人生を舐めすぎている気もするが、イージーモードでプレイするのか、ハードモードでプレイするかは、どの程度、物や事に価値を与えるか、、、何にどれくらい執着するのかがすべてではある。

 

私という実態のない雲の様な架空の存在に執着しない人にとっては、喜怒哀楽を感じる自我は存在しないという事で、まったく我執のない人には苦しみも存在しないということだ。

 

また、あらゆることに価値を与えるかどうかは、自分の選択次第であり、喜怒哀楽は苦しみであるという洞察を放棄するのは、ハードモードをセレクトすることを意味する。

 

ハードモードはそれなりに苦労するもんで、苦労すればするほどに、ゲームが上達したり、見えてくる世界があったりもする。

 

この世の全てに意味があり、人生の現象はすべて重要、価値があるって、選択して生きるのもいいが、他人や環境圧力で、無理やりハードモードを選ばされているなら、自分次第でイージーモードも選べるって事だわな。